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私の純米酒ストーリー・蔵元編

私の純米酒ストーリー 鯉川酒造株式会社 佐藤一良

 

失敗という言葉しか自分にはないように思える。この会社の社長になって18年、

ほんとに挫折ばっかりの経営を続けている。今も光を捜しながら頑張る今日この頃。

まだ、ワイン会社にいるころに神亀酒造㈱小川原さんに出会い、蔵元交流会に入ったことだけが純米酒ストーリーとして話せる部分だと思う。

その部分はご存知の方もいらっしゃるでしょうが、実際のところ、「神亀」とどういう出会いをして、自分が純米酒にのめり込んだのか、当時の状況も含めて、詳しく書きたいと思う。

まず最初に告白しなければならないが、22歳から8年間、私は純米酒を口にしなかった。それよりも日本酒を極力飲まないようにしたというのが正解だと思う。理由は売れも

しない、美味しくないワインを売らなければならず、好きな日本酒を飲んだら、売る気がなくなると本気で思った。スコッチウイスキーもバーボンもそうだった。

美味しいとは思わなかったが、「酒はスタイルで飲む」ものだと思っていた。輸入ビールもフランスのものを販売した。約6年間は国産ビールも飲まなかった。

なんで、そんなにしゃかりきになって営業していたのか?それは入社時の出来事がすべてだった。

大学で音楽ばかりの生活で、ろくに勉強もしていなかったので、内定が決まってからの試験でブービーだった。

俺より馬鹿がまだ一人いたことも凄いが、これではまずいと真剣に思った。ソムリエの試験に挑戦したのも、勉強しないと合格できない「むずかしさ」に憧れてであり、ワインを真剣に勉強するより頭が良いとアピールしたいだけだった。

そんな自分に純米酒を勧めてくれたのは、ワイン居酒屋の店長だった。仙台へ赴任して、一軒の飲み屋に通っていた。

その店は一番町の「グッドタイムチャーリー」、店長は私より一歳上の中込氏だった。

彼から「神亀」を初めて飲ませてもらった時、ひね味が気になり、美味しくなかった。

でも何故か気になっていた。彼は行くたびに「神亀」を燗で飲ませた。造り酒屋の倅であることがばれていたので(実は親父も仙台へ来ると、ここで黒ビールを飲んでいた)

何故「神亀」ばかり置いているのか聞いた。

「佐藤君ところは今、潰れないかもしれないけど神亀さんは今売らないとだめなんだ。応援しているんだ。」とのこと。(20年前の話)

その話を聞いてから飲むと、旨みが感じられるようになるのも不思議な話。そして私は神亀さんに会いに盛岡まで行き、ブルーチーズに純米の熱燗を飲ませていただき、純米酒に目覚めたのだと思う。

昔の話であり、今は優良企業の神亀さんに、吹けば飛ぶよな酒蔵の私ではあるが、あの人の酒が東北に来なかったら、私は大手卸に振り回されて、廃業していたと思う。

特に先代(父)が急死した平成5年。蔵元交流会で上原先生とゆっくり話をさせていただき、あとは皆さんご存知の流れです。

読み返すと恥ずかしいが、純米酒にのめり込んだきっかけは「神亀」。

この事実とは一生付き合うつもりなのだが、最近、彼のハードルがどんどん高くなるので、一体どうなることやら?(笑)乞うご期待!


 

 


蔵人になってしまった 天穏 タオ(岡田)

 平成15年の4月、小学校の教員として聞いたことも行ったこともない「温泉津町」という田舎町に行かされ、後日、教員住宅前にて『岡田君歓迎バーベキュー』が開かれました。 隣の小学校の校長先生が持って来てくださった『温泉津町会員限定の酒』なるものを湯飲み茶碗にゴプゴプと注がれて飲んだ瞬間に、純米酒の美味しさを初めて知りました。あの時の鮮烈な印象は今でも忘れません。 

後日談ですが、そのお酒は『開春』亀五郎 無濾過生原酒(自家貯蔵により、しっかり生老ね)ということが判明。ただ、開春の生老ねは今でも飲めます。 

それから純米酒を飲み始め、単純に『米と麹と水と酵母しか使わないのになんでこんなに味が色々とちがうのだろう?』ということに興味を抱き、日本酒ガイドブック的なものを読みあさり、次第に飲むほうではなく造るほうに関心が向いていき、いつかお酒造りをしてみたいと思うようになりました。 

それが、日本酒造りに行こうと思ったいきさつです。要は、地元の純米のナマゲンの生老ね飲んで、感動して、本読んでたら造りたくなった、ということです。 

以下、余談ですがついでに書かせてもらいます。 

造りへの欲望は抑えつつ、仮面教員を続け、2学期の残務処理を終えた私は開春の社長に頼み込み、12月28~30日の3日間、蔵で住み込みさせてもらい見学、粕切りのお手伝いをしました。当時、杜氏であった奥村さんからは、せっかくガッコの先生になったんだからやめときなはい、と言われ、社長からも斜陽産業に飛び込んでくることはないと、反対されました。 

この頃と前後しますが、天穏にも蔵見学で来たことがあり、長崎杜氏とも仕込み蔵の足場で頭を低くしながら話したことを覚えてます。今はうちも人が足りてるし、教員やってんだからもったいないぞと、反対されました。 (後日、天穏に入社して造りに入ったときに、おやっつぁんから『あんときゃ、やめとけといったもんだがのぉ』と言われ、覚えてくれていたことが嬉しかったです。) 

平成16年の3月31日をもって、1年間で臨時教員をやめました。母親に泣かれ、父親に笑われ、兄に馬鹿にされながらも唯一人励ましてくれたのが、痴呆症全開の祖父でした。 

その後、大阪の山中酒の店に4月から約10ヶ月間お世話になり、一升瓶を鞄に入れてチャリンコに乗って市内中を走り回り飛び込み営業&地方飲食店への電話営業をし、1月下旬から開春に蔵人として入蔵。この大阪にいた頃にお燗酒や料理との相性についてなど非常に勉強させて頂きました。 

で、平成17年4月に1ヵ月間ほど、もといた温泉津の小学校の臨時教員をさせて頂き、5月の連休明けに開春の奥村杜氏から我が家に『近くの板倉酒造が若いもんをほしがってるみたいだから行って見なさい。』と言ってくださり、面接を経て5月21日より年間雇用として採用されまして、現在に至ってます。 

 

タオ君の入ってしまった天穏のお酒はこちら


酒蔵の息子として生まれて 三井の寿 井上宰継

蔵元に産まれ酒造りを今していると言う事は自分にとってごくごく自然の事です。

両親からは、一回も蔵を継げとは言われた事はありません。

しかし自分も覚えていない小学校の作文には、将来の夢として自動車の整備士になることが書かれていましたが、閉めには「でも自分は長男なので蔵を継がなくてはいけません」と、もう書いてありました。

高校から家を出ていたので、三井の寿がどういう酒造りをしているのかはその当時は勿論、なんの興味も無く知りませんでした。

日本酒とはなんの関係も無い仕事に就き、27歳で蔵に戻るまで、本当に何も三井の寿について知りませんでしたし、知ろうともしていませんでした。

最初に蔵にもどって感じた事は、なんてローカルな仕事をしているんだ!って事でした。

外資系の会社に勤めていて、合理的、能力的仕事をしてて、店をまかせられていた時はその店一軒、社員自分一人、バイト10人で当時の三井の寿の年商を稼いでいたからなおさらです。

しかし、流通ルートは自分の想像以上に凄く、社長は自分の父ながら、未だ宅急便の無い時代から、良く東京の酒販店さんなどと取引をしていてなぁと、尊敬しています。

今の三井の寿があるのもその普通酒が売れていた時代、普通酒じゃなくちゃんとした純米酒の時代が来ると思った社長の先見の目だと思います。

蔵に戻った時は元菊姫にいた杜氏がいて酒造りをしていましたが、この事が今の自分の酒造りの基点となった出来事です。

当時九州では山廃造りをしている蔵などなく 、菊姫と言えば山廃の神様と言われている農口杜氏がいてその下で山廃造りを学んだだけあって、山廃酛の造りは目を見張る物が有りました。

おまけに、今となっては良い事ですが、その当時居た杜氏が自分が働くより、教える事が好きだったもので蔵人全員がすべての仕込み作業を把握でき、又製造出来る全員杜氏見たいな事になっていました。

蔵にもどり、5年も経つと酒造りも段々理解してきて、又、蔵元の友達も増え、その蔵の酒造りについて良く聞くようになってきました。

その中で、三井の寿の酒造りに疑問が出てきて、又、昔の三井の寿の杜氏であった能登原杜氏の酒とは違ってきていたのでその事で杜氏とも話し合い、こういう風に造りを変えたいと話ましたが、どちらかと言うとその杜氏が否定する造りだったもので取りあえずその年、一本だけ自分の造りで酒を醸しました。

すると、その酒は能登原杜氏の酒に近づき、まわりの反応も良く、調度、その杜氏の移動話も出てきてたので、翌年から杜氏制ではなく製造部と言う形で酒造りを始めました。

毎年千種類以上の日本酒をきき酒し、美味しいと思った蔵元とは友達になり、蔵に行き見学させてもらったり、造りを教えてもらい、日々酒造りを勉強しています。

半年間は酒造りで蔵にこもり蔵の敷地内から出ない事もしばしばですが、造りが終わってからは、そのような見学や営業で蔵を出て、昨年は約7ヶ月で56回も飛行機乗ってました。

4日に一回飛行機乗ってる計算ですから家では、家内から半年間は母子家庭って嫌味言われていますが・・・

それから、三井の寿は全国新酒鑑評会でも7年連続入賞中です。

純米酒好きで匂いのキツイ酒が苦手な方は何で?と思われる方もおられると思いますが、自分はこう思っています。

車が好きなものでモータースポーツに例えさせてもらうと、全国新酒鑑評会はF1レースと同じと考えています。

F1で一般道は走れませんが一般車への技術のフィードバックは大きなものです。

大吟醸を造る技術があってこそ、美味しい純米酒も造れると言う技術的面と自分は匂いの有るお酒は食中酒には向かないと思っているので、その事を言う時に「全国でお酒は入っていますが、あれはレース用であって食中酒にはこの酒ですよ」と言い安いかな?との思いもあります。

現在では兄弟で酒造りをし、新しい酵母や酒米なども使用し、蔵元杜氏にしか出来ないチャレンジなどもしています。

酒造りは「化学とセンスと情熱だ!」をもっとうにこれからも三井の寿のお酒を醸していきます。

 

三井の寿のお酒はこちら


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