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酒蔵の息子として生まれて 三井の寿 井上宰継

蔵元に産まれ酒造りを今していると言う事は自分にとってごくごく自然の事です。

両親からは、一回も蔵を継げとは言われた事はありません。

しかし自分も覚えていない小学校の作文には、将来の夢として自動車の整備士になることが書かれていましたが、閉めには「でも自分は長男なので蔵を継がなくてはいけません」と、もう書いてありました。

高校から家を出ていたので、三井の寿がどういう酒造りをしているのかはその当時は勿論、なんの興味も無く知りませんでした。

日本酒とはなんの関係も無い仕事に就き、27歳で蔵に戻るまで、本当に何も三井の寿について知りませんでしたし、知ろうともしていませんでした。

最初に蔵にもどって感じた事は、なんてローカルな仕事をしているんだ!って事でした。

外資系の会社に勤めていて、合理的、能力的仕事をしてて、店をまかせられていた時はその店一軒、社員自分一人、バイト10人で当時の三井の寿の年商を稼いでいたからなおさらです。

しかし、流通ルートは自分の想像以上に凄く、社長は自分の父ながら、未だ宅急便の無い時代から、良く東京の酒販店さんなどと取引をしていてなぁと、尊敬しています。

今の三井の寿があるのもその普通酒が売れていた時代、普通酒じゃなくちゃんとした純米酒の時代が来ると思った社長の先見の目だと思います。

蔵に戻った時は元菊姫にいた杜氏がいて酒造りをしていましたが、この事が今の自分の酒造りの基点となった出来事です。

当時九州では山廃造りをしている蔵などなく 、菊姫と言えば山廃の神様と言われている農口杜氏がいてその下で山廃造りを学んだだけあって、山廃酛の造りは目を見張る物が有りました。

おまけに、今となっては良い事ですが、その当時居た杜氏が自分が働くより、教える事が好きだったもので蔵人全員がすべての仕込み作業を把握でき、又製造出来る全員杜氏見たいな事になっていました。

蔵にもどり、5年も経つと酒造りも段々理解してきて、又、蔵元の友達も増え、その蔵の酒造りについて良く聞くようになってきました。

その中で、三井の寿の酒造りに疑問が出てきて、又、昔の三井の寿の杜氏であった能登原杜氏の酒とは違ってきていたのでその事で杜氏とも話し合い、こういう風に造りを変えたいと話ましたが、どちらかと言うとその杜氏が否定する造りだったもので取りあえずその年、一本だけ自分の造りで酒を醸しました。

すると、その酒は能登原杜氏の酒に近づき、まわりの反応も良く、調度、その杜氏の移動話も出てきてたので、翌年から杜氏制ではなく製造部と言う形で酒造りを始めました。

毎年千種類以上の日本酒をきき酒し、美味しいと思った蔵元とは友達になり、蔵に行き見学させてもらったり、造りを教えてもらい、日々酒造りを勉強しています。

半年間は酒造りで蔵にこもり蔵の敷地内から出ない事もしばしばですが、造りが終わってからは、そのような見学や営業で蔵を出て、昨年は約7ヶ月で56回も飛行機乗ってました。

4日に一回飛行機乗ってる計算ですから家では、家内から半年間は母子家庭って嫌味言われていますが・・・

それから、三井の寿は全国新酒鑑評会でも7年連続入賞中です。

純米酒好きで匂いのキツイ酒が苦手な方は何で?と思われる方もおられると思いますが、自分はこう思っています。

車が好きなものでモータースポーツに例えさせてもらうと、全国新酒鑑評会はF1レースと同じと考えています。

F1で一般道は走れませんが一般車への技術のフィードバックは大きなものです。

大吟醸を造る技術があってこそ、美味しい純米酒も造れると言う技術的面と自分は匂いの有るお酒は食中酒には向かないと思っているので、その事を言う時に「全国でお酒は入っていますが、あれはレース用であって食中酒にはこの酒ですよ」と言い安いかな?との思いもあります。

現在では兄弟で酒造りをし、新しい酵母や酒米なども使用し、蔵元杜氏にしか出来ないチャレンジなどもしています。

酒造りは「化学とセンスと情熱だ!」をもっとうにこれからも三井の寿のお酒を醸していきます。

 

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