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私は如何にして酒呑みとなりしか(窪田俊行)

六年ほどまえの某夜、とある居酒屋で銘柄が幾十と並ぶ酒の品書きにビビって私は平静を装って言った。

「何か辛口の良いやつありますか?」

すると店主は

「そこにあるのみんな辛口だよ。それにただ良いやつったって色んなタイプがあるんだから、お客さんの好みを言ってくんないとね」と、にべもない。

仕方無く『すいません、ビールで良いです』とあやまり、その一本を呑んでそそくさと店を出た。
以後に度とそこの暖簾をくぐったことはないが、一年ほどしてから通りがかりに様子をうかがうと、
もうなくなっていたので、まあ一勝一敗だなと思うことにした。
それにしても我ながら間抜けなことを言ったものだが、
実は、この頃の私は、酒をうまいと思って呑んでいた訳ではなかった。
学生時代はビールの爽快、ウイスキーの重厚、ジンの洒脱、
それぞれに気をひかれていて、他に呑むものがない、という時以外は、まず酒を口にすることはなかった。

あの、アルコール臭がツーンと来る、ベタベタと甘い他はただ平板なだけで何の味もしないために、
口にいれたとたんにそんなものを呑んでいる自分が情けなくなってしまうようなアルコール飲料を進んで呑む気にはならなかったのだ。
しかし、友人の中にはそういった酒を好む者もいて、彼らを横目に見て、
よくあんなもん呑んでるかと思う反面、やはり日本酒ならば国酒たる清酒を呑むべきだ、
という観念も自分の中にあって、酒呑みの友人達をうらやましく思っていた。

ところがある日、ふとしたことで純米酒という言葉を聞いた。それに付随してアル添とか三増という言葉も知った。
「なーんだそうだったのか。今まで偽物呑んでたんじゃん」と思った。
そこで早速純米酒というのを買って来て呑んでみた。
ショックだった。やっぱりまずかったのである。
その時頭をよぎったのは、コーラを初めて飲んだ日本酒は、
一様に薬臭くてまずと言ったという事実と、ビールを初めて呑んで、
こんな苦いもんどこがうまいのかと感じた自分自身の体験だった。
無意識のうちにも「初めからいきなりうまいわけがない。
そのうち慣れる日が来る」と思い込もうとしていた訳で、その瞬間ドロ沼に踏み込んだしまったと言って良い。

つまり、私の場合吟醸を呑んで目からウロコが落ちたり、
誰かにひきずり込まれたりした訳ではなく、
純粋にイデオロギーから酒の世界に入ったのだった。
全くの手探り状態だったので、とにかく知識と情報が欲しくて本を探して読みあさった。
酒はデパートへ行ってズラーッと棚に並んでいるうちから純米酒と書いてあるのを手当たり次第に買って来ては呑んでいた。

そうやって半年も経った頃、ふと立ち寄ったコンビにでマンガ雑誌に『夏子の酒』というタイトルがあるのを目にして手に取り、パラパラとページをめくっていくと、夏子のこんなセリフに突き当たった。

「こ、こんなのお金を出してのみたいと思わない! 平べったくてベタベタして炭のにおいとぬかのにおいがプンプンしてて・・・これが純米酒なの?」

どえらい衝撃だった。何のことやらさっぱり判らなかったのである。炭のにおい? 
ぬかのにおいって? この時ぶち当たった壁は実に高かった。正直言ってもういいと思った。
「判った、俺が悪かった。この世界などは自分が立ち入ってはいけない世界だった、もう降参しよう」と。
しかし、そうしなかったのは当時入れあげていたオネーチャンがかなりの酒呑みだったという切実な理由によるもので、
言ってみればl今日の私が有るのはひとえに色欲のなせるわざであったということになる。
まあ、それはともかく、何とか立ち直り、いくばくかの知識も得、
電話帳で探した地元の酒販店へ通うようになて、
デパートでは酒を買わなくなった頃、どんな酒を呑んでどう思ったかを記録につけることを始めた。

今読み返してみると、素直にうまいと思ったこともあれば、
うまいのかどうか良く判らずに悩んだり、
有名な銘柄なのだからうまいに違いないと思い込もうと努力したりと、
試行錯誤の跡がうかがえて面白い。

例えば自分の姓と音が同じで字が違うあの有名な酒を「あまり冷やさない方が良い。
冷蔵庫から出して三十分置くと香りのひろがりが良くなる。辛口の良い酒」などと評してある。
今の自分であれば、こんなことを真顔で話す人間とは口もききたくないところだが、
当時は客観的な評価も出来ないくせに、何とか酒に気に入られようと懸命だった。
しかし他方では、その年のある雑誌のコンテストで一位になった酒を呑んで「NG、品のない薄っぺらな香り、
だらしない味」と書いていたりもするから、まるっきりのミーハーでもなかったようで、
嗜好が確立する途上に居たのだと言えよう。

冒頭の出来事がこの頃の話である。
自分の好みが自分でも把握出来ておらず、
酒の香味に対する語彙も乏しかったところへ持って来て、
例の銘柄列挙の品書きであるからたまらないっす。

すっかり逆上してしまい、普段から半可通が使うものだと軽蔑していた「辛口」という言葉に逃げ込んでしまった。
店のおやじも偏屈だったが、こっちも自業自得みたいなもので、夜風に吹かれながら「俺もまだまだだな」と思ったのを覚えている。
そうやってあっちへ行ったりこっちへ転んだりしているうちにも好みの酒もいくつか出て来たが、それらは全て純米酒だった。
もともとが純米酒から入った世界だったから当然といえば当然なのだが、それにしても生酒が甘くてくどく、アル添の大吟は香りが鼻について好きになれず、何故人々は大吟大吟と騒ぐのだろうかと不思議に思っていた。

その疑問が氷解したのは、四国のとっても有名な蔵の大吟醸を呑んだ時である。
華やかだが品を失っていない絶妙な香り、口の中に花を咲かせて消えて行く時の硬質で気高い味わい。初めてアル添の酒をうまいと思った。同時に何かが吹っ切れた。
ついに開眼したなどと言えば芝居がかってしまうだろうが、この出会いによって自分なりの酒に対する評価の基準が出来たと思う。
俄然、酒が楽しくなった。アル添の大吟醸を楽しむことも、生酒をそれなりに評価することも出来るようになった。
振り返ってみればこの時期が一番良かった。
味の多い酒も、カプロン酸がぐわーと攻めて来る大吟醸も、まだ出来損ないみたような重ったるいだけの純米も、何でも呑めた。
そしてそれぞれにうまいと思っていた。

そして不幸はじわじわと、しかし確実にやってくる。

年上の友人に酒販店をやっている男がいるのだが、彼の店に通うようになってから再び好みが変化し始めたのである。
まず、やたらな生酒を口に入れることが出来なくなった。
次に味の多い酒を受けつけなくなり、そしてアル添に顔をしかめるようになった。
最近では吟香がちょっと派手だともうこれだけで憂鬱になることがある。

今どんな酒が呑みたいかと問われれば「ほのかな吟香とほどよい酸があり、
軽快だが米の甘みが十分かつ繊細に表現されている、後口のきれいな純米酒の、良い具合に熟成したやつ」と答える。
この先も好みはまだまだ変わって行くのかもしれないが、
今のところ酒は純米に始まって純米に終わる、という気持ちである。
それにしても限られたいくつかの酒ばかりを呑み、
たまに他の銘柄を試してみては首をひねっている現在の自分は、
この世界に入り込んだ当初と全く同じである。

ふと、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』という小説を思い出した。
主人公の精薄児は手術によって高い知能を得るが、
その治療法が完璧なものではなかった為、結局また精薄に戻ってしまった。
私は洋酒から純米酒へ宗旨替えし、一時はアル添や生酒に近づいたが、
再びそこから離れ、今では吟香さえ遠ざけつつある。
そしていつの日にかまた、洋酒の世界へ変えて行くことになるのだろうか。

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