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上原浩という存在の重さ

毒舌ナンバー1と言われた我が師匠、上原浩先生。確かに舌鋒鋭い一面もありま したが、その指導には現場で仕事をする蔵人さん達に対する愛情があふれていま した。そして、上原先生の指導がなかったら、現在当店で扱っている美酒も存在 しなかったのです。

上原浩という存在の重さ

この方、私の師匠です。それも日本酒、というか、はっきり言えば純米酒(もちろん純米吟醸も純米大吟醸も含むのですが)の師匠です。

初めてお会いしたのは、平成4年の初夏頃でしたでしょうか。酒造りの研鑽をしよう、という趣旨で、全国の蔵元さん、杜氏さんや蔵人さん、何件かの酒販店が集まった蔵元交流会という勉強会があるのですが、この時の幹事が神亀さんで、埼玉県の川越市で開催されることとなりました。

それまでも、吟醸酒を中心に、日本酒を探し求めていた私は、この情報を聞きつけて、是非参加させて欲しいと頼み込みました。

この会は、全国の志を同じくする酒蔵から集めた純米吟醸、純米酒を試飲し、技術者も、指導する立場にある鑑定官(上原先生のような方)も、さらには販売する立場にある、我々酒販店も同じ地平でお酒の善し悪しを論じようとする試みです。

出品されているお酒は、すべてブラインドで試飲し、評価を付けられます。シビアな評価を聞かされることもしばしばあります。が、それをバネにして次の造りに反映させてほしいがために、あえて辛口のコメントをされることも多いのです。事実、この時のコメントに奮起して、それからどんどん良いお酒を造るようになった酒蔵さんもあります。参加されている皆さんが、熱き血潮をたぎらせています。なので、会が終わった後の宴会でも、あちこちで議論が始まります。

そんな中で、ある方から、「お前、上原先生に挨拶しておけよ」と言われ、じゃあ、ってなことで挨拶させていただいたのが、先生と近づくきっかけとなったのでした。

「あ、初めまして。わたくし、この川越の隣の大宮市で酒販店をやっておりますが・・・」

「まあ、ええから、ええから。それよりこの酒を飲んでみんかい。どうじゃ、これは。さっきより温度が上がってきたもんで、なかなかエエ具合に味が来ておるじゃろ」なんか、先生なんて言われているわりには気さくな爺さんだな~、というのが第一印象だったのですが・・・

 

 

その翌年、『ここに美酒あり選考会』という、平成元年から全国各地で酒販店さんがひきついで開催しているイベントが大宮で開かれることとなりました。これは全国の酒蔵さんから純米、純米吟醸を提供していただき、上原先生をはじめとする審査員で審査をし、その後パーティ形式で一般参加のお客様を集めてそれらのお酒を楽しんでいただくイベントです。

当然、幹事は私。会場の手配からチケットの販売、日本酒ファンへの告知と、1年かけて準備をしていました。前日からは上原先生をはじめとする審査員、スタッフの方々も全国から集まってきました。そして翌日の本番。実は、私は当日、全く会場に行くことが出来ませんでした。

当時、父母が入院していて、イベント当日の朝、病院から容態がおかしいから、と電話が入りました。結局その日、父は帰らぬ人となりました。また、隣の病室では母の手術が行われていましたが、結局母もその半年後には他界しました。

しかし、前夜、上原先生には「お前は、明日は会場に来んでもいい。病院に行っていろ。それが人としての務めだ」と言われ、全てはスタッフに任せてありました。幸い、経験豊富なスタッフと上原先生をはじめとする審査員の方々の御陰で、イベントは大成功。最初はどれだけ人数が集まるか心配だったのですが、定員の300名を超えるお客様に集まっていただけたようです。

 

 

その後、上原先生の故郷にしてその当時指導されていた酒蔵の多かった鳥取県まで出かけていくようになりました。それも毎年。その度に、上原先生にも酒蔵まで同行していただくようになりました。「そりゃ、お前が来るんなら、わしも行かにゃならんじゃろ」今考えたら、なんと贅沢な酒蔵巡りだったのだろうと思います。

しかし、その当時は、あ~、また上原先生に会える~! また、いろいろとお酒造りの話を聞かせてもらえるんだ~、先生の話は面白い上に分かりやすいからな~、くらいの感覚でした。それに、酒蔵を訪問した後の、先生と杜氏さん、蔵元さん達との飲み会がまた楽しみでした。鷹勇を訪れた時は、坂本杜氏からお酒を注いでもらい、恐縮してしまいました。が、そんな大杜氏も上原先生にしてみたら子供のようなもの。

「わしがあの時、社長に、この坂本を杜氏にしたらどうか、と言うたんじゃ」などと言われれば、坂本杜氏も頭が上がらないのは当然でしょう。

しかし、決して尊大な態度をとられない方でもありました。いつでも現場の杜氏さんや蔵人さんの立場に立って考えてらっしゃる。なので、坂本杜氏も、上原先生の言葉は、いつもしっかりと受け止めてらっしゃいました。でも、時々は「それなら先生がやって下さい」などと言われることもあったそうです。

そんな時、先生は「いや、わしはあくまでも、こういうやり方がある、と言うだけじゃ。それをやるかやらんかは、あんた達が決めることじゃ」とおっしゃったそうです。技術者としての矜持は持っておられたけれど、現場で働く人達を大事にされた方でした。

しかし、現場での指導には定評がありましたが、口の悪さでも定評がありました。「昔はわしより口の悪いのが二人ほどおったから、わしが三番目じゃったが、もうすでに鬼籍に入っとるから、現在じゃわしが一番口が悪いことになっとる。わしゃ、本当のことを言うとるだけじゃがな〜。本当のことを言うと、みんな口が悪い、口が悪いと言いよる」とよく言われていました。

確かに、先生がお話されるのを聞いていると、ずばりずばりと的確な指摘をされているのですが、けっこう口が悪かったです。ある蔵の純米酒を呑んだ時は、「こんなにエエ米を使ってこんな酒しか造れんようじゃ、山田錦や雄町のようなエエ米を使う資格は無い。こりゃ、国賊じゃ。

あまり(良い米は)無いんじゃから、エエ酒を造る蔵に回したらエエんじゃ」とか、ある杜氏さんが、自分が造った純米吟醸を冷やのまま勧めたら、「こら、燗の方がエエわい。エエ酒ほど燗にして呑むもんじゃ。なに?初めて聞いた? あんた造りは名人かもしれんが、呑むほうは素人じゃな。」などなど、今でも記憶の中にありありと蘇ってきます。

 

 

そんな上原先生も、戦時中は軍へ徴用されてスパイのようなことをやらされていたそうです。赴任地は広島だったのですが、原爆が落とされたときには、ちょうど広島を離れていて被爆からは免れています。戦後は鳥取県に配置換えとなり、現地の酒蔵の指導に当たられてきました。

そんな先生が口を酸っぱくして言っておられたのが、蒸米(むし)のことでした。良い蒸米が出来なければ良い麹は出来ない。となれば、その後の工程もうまくいかない。酒造りの基本は蒸米にある。というのが先生の持論でした。

酒造りでよく言われるのは「一、麹 二、酛 三、造り」ということですが、上原先生に言わせると「一に蒸米、二に蒸米、三に蒸米、四五がなくて六に麹」とのことでした。なので、酒蔵へ行ったら、まずは釜場(お米を蒸す場所)を見てみるように、と言われたのを覚えています。

 

 

また、当店では定期的にお客様の中でも純米酒狂の方達を集めて宴会を開いていて、その名前を「上乃宮会(うえのみやかい)」と言います。先生には、この上乃宮会の名誉顧問をやっていただいていた関係で、毎年一回、11月の定例会には、必ずお越しいただきました。

その当時の店の二階の事務所を会場にして、談論風発。先生の尽きない話題を肴に実に楽しい宴でした。しかし、11月の宴会にも先生の姿は見られません。先日、先生の息子さんにお話を聞く機会があったところ、「父は、毎年一回、大宮に行くのを、それは楽しみにしておりました」と聞かされ、目頭が熱くなりました。

 

 

先生の思い出を語りだすと、それこそ止まらなくなりますし、先生に教えてもらった酒造りの話も非常に参考になったのですが、その先生の話が、びっしりと詰まったのが、光文社新書から出ている『純米酒を極める』です。

十数年かけて聞かせていただいた先生の、酒造りに対する考え方、日本酒の現状について、実に濃い内容になっています。日本酒に興味のある方でしたら、是非、手にとってください。立ち読みなんかしないで、是非、一家に一冊!それだけの価値はあります。

 


上原先生講演録 

ブログで、上原先生の講演録を掲載し始めました。

2001年11月に東京で開催された『上原先生を囲む会』で先生がされたお話を掲載しています。

上原先生に興味のある方は、是非ご覧下さい。

生前の先生を知ってらっしゃる方ならば、あの独特の語り口調を思い出していただけるのではないでしょうか。

 

「心も体も温かく 純米酒専門店店長三平の酒飲み徒然草」


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